関ヶ原の戦い勢力図。西軍の半分以上が裏切りと不戦
国内最大の戦争が短期決戦だった理由
天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦。日本史史上で最も有名な合戦の1つですが、西軍の裏切りの多さに驚かされます。
関ヶ原の戦いは、全国の大名が東軍・西軍に分かれ、両軍併せて20万人近い兵力が集結したと言われています。しかし、開戦からわずか半日(約6時間)で決着がついています。
これだけの大きな戦いでありながら、関ヶ原の戦いが短期決戦となった理由は、西軍の大名たちの裏切りにあります。
その中でも兵力1万5千を有する、西軍小早川秀秋の東軍への寝返りが関ヶ原の戦いにおいて勝敗を決定づける役割を担っていたのは有名な話です。
もしも、小早川秀秋の寝返りが無ければ、日本の歴史は変わっていたのかも知れません。
主要武将の裏切り
小早川秀秋の15,000の兵士とが、西軍から東軍へ裏切りが最も影響があったのではないでしょうか。自軍から15,000の兵力を失い、敵である東軍に加わったことは、関ケ原の戦いにおける勢力図に大きな影響を与えたのは計り知れません。
また毛利秀元の15,000の兵士と長宗我部盛親の6,600の兵士合わせて、21,600が戦わずして負けを認めてしまったことも、大きな痛手です。
西軍から36,000以上の兵士が去ってしまったことが、戦の敗因であることは言うまでもありません。東軍の徳川家康の戦略は、関ケ原の戦いの血の量を最小限にした功労者なのかもしれません。
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関が原の戦い 勢力図の変化
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参照元:http://www.visualthinking.jp/archives/5603西軍・主な参戦武将
- 宇喜田秀家:17,220
- 小早川秀秋:15,000(西軍から東軍へ裏切り)
- 毛利秀元:15,000(西軍だけど不戦)
- 長宗我部盛親:6,600(西軍だけど不戦)
- 石田三成:5,800
- 小西行長:4,000
- 吉川広家(西軍から東軍へ裏切り)
東軍・主な参戦武将
- 徳川家康:30,000
- 浅野幸長:6,500
- 福島正則:6,000
- 黒田長政:5,400
- 細川忠興:5,000
- 池田輝政:4,500
- 井伊直政
- 松平忠吉
- 加藤嘉明
- 田中吉政
- 京極高知
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